渥堆の微生物:黒麹菌、酵母、バチルス
熟茶は「カビが生えるまで置いたお茶」と誤解されがちです。実際の渥堆は、役割分担と交代のある微生物発酵で、醤油や味噌づくりと近い理屈です。管理された温度と湿度の中で、特定の微生物に原料を望む風味へと変えてもらうのです。
渥堆にはどんな微生物がいるのか
ここ十数年の研究では、培養と遺伝子解析の方法で渥堆中の微生物が分析されています。よく見られるのは次のようなメンバーです。
| 分類 | 主なメンバー | おおよその役割 |
|---|---|---|
| アスペルギルス属の真菌 | 黒麹菌(Aspergillus niger)と近縁種 | 前期に優勢で、多くの酵素を分泌 |
| 酵母 | Blastobotrys adeninivorans など | 中期〜後期に増え、成分の変化に関わる |
| 耐熱性の真菌 | Thermomyces など | 堆温が高い時期に現れる |
| 細菌 | バチルス(Bacillus)、Pantoea など | 前期は Pantoea が多く、後期はバチルスが主役 |
これまで黒麹菌とされてきた主な菌株の一部は、再同定の結果、同じ属の Aspergillus luchuensis などの近縁種だったとする研究もあります。研究ごとに結果が完全に一致しないのは、茶工場・原料・季節・堆の量が菌叢の構成に影響するためです。
段階ごとの優勢菌
研究者は渥堆の全工程を追跡し、はっきりした「交代」を観察しています。
- 前期:水を打った後、堆が湿って温度が上がると、アスペルギルス属の真菌が急速に増えます。2025年のHuらの研究では、前期は黒麹菌が中心でした。細菌では、4種類の発酵方法を比較した2026年のある研究で、前期に Pantoea が多いことがわかっています。
- 中期:堆温が50〜60°C以上に上がると、耐熱性の菌の割合が増えます。
- 後期:バチルス、耐熱性の真菌(Thermomyces など)、Blastobotrys 酵母が優勢になります。
切り返しは堆の温度と酸素を変え、それによって誰がいつ活発になるかも調整されます。つまり職人が切り返すタイミングは、ある意味でこの交代を指揮しているのです。切り返しの詳細は散水と切り返しをご覧ください。
微生物は何をしているのか
微生物はさまざまな酵素を分泌し、茶葉の成分に作用します。
- 茶ポリフェノールの変化:ある30日間の渥堆を実測した研究では、茶ポリフェノールが1グラムあたり約107ミリグラムから約47ミリグラムになり、半分以上減りました。
- 色素の生成:テアブラウニンは1グラムあたり約18ミリグラムから約61ミリグラムに増え、水色は黄緑から赤く濃い色になります。
- 香りの変化:爽やかな花や草の香りが減り、木の香りや陳香の成分が増えます。
- 口当たりの変化:苦渋みが穏やかになり、まろやかでなめらかな口当たりになります。
色素の化学についてはテアフラビン・テアルビジン・テアブラウニンをご参照ください。
微生物は加えるのか
伝統的な渥堆では菌種を別に加えません。微生物は原料そのもの、空気、水、発酵室の床や壁、道具から来ています。老舗茶工場の発酵室は何十年も使われており、環境にはすでに安定した菌叢ができています。これも茶工場ごとに熟茶に「工場の味」がある理由の一つです。
近年は、特定の菌株を選んで堆に加え、発酵をより管理しやすく速くする「接種発酵」を試みる研究や茶工場もあります。これはまだ新しい製法で、市場に出回る熟茶の大半は今も自然発酵です。新しい発酵方法もご参照ください。
微生物発酵とカビの違い
| 渥堆発酵 | カビ | |
|---|---|---|
| 条件 | 意図して管理された温度・湿度と切り返し | 不意に湿気を帯び、管理されていない |
| 微生物 | 決まった優勢菌が交代していく | 環境中のカビがランダムに増える |
| 過程 | 始まりと終わりがあり、最後は乾燥して止まる | 湿っている限り増え続ける |
| 結果 | 水色は赤く濃く、香りは熟して甘い | 鼻を刺すカビ臭、表面にカビの斑点 |
製品の熟茶は乾燥を経て水分が13〜14%以下になっており、微生物はもう盛んには活動しません。保存するときは乾燥・通風・無臭を保ち、湿気を避けてください。熟茶の表面にカビの斑点が出たり、鼻を刺す匂いがしたりしたら保存に問題があったということなので、飲まないでください。
よくある質問
渥堆にはどんな微生物がいますか? 黒麹菌などのアスペルギルス属の真菌、Blastobotrysなどの酵母、耐熱性の真菌、バチルスなどの細菌がよく見られます。
渥堆の微生物は加えるのですか? 伝統的には加えません。原料・空気・水・発酵室の環境から来ています。接種発酵は近年の新しいやり方です。
前期と後期の優勢菌は同じですか? 違います。前期はアスペルギルス属が中心で、後期はバチルス、耐熱性の真菌、酵母に入れ替わります。
渥堆とカビは同じですか? 違います。渥堆は温湿度を管理し、決まった菌叢が交代していく発酵です。カビは不意に湿気を帯びた後、雑菌がランダムに増えたものです。